「遠い夏の日」

頼まれた原稿を書く私に、かすかな旋律が聞こえてきた。 顔を上げ、窓外の音に耳を澄ます。知らぬ間に夕焼けが広がった空に「家路」の曲が、ゆったりと流れている。 その情景は、私を一気に遠い夏の日へと、連れていった。

二歳違いの兄と私、小学校が夏休みになると、決まって祖母の家へ遊びに行く。 一週間から十日間、親もとを離れて、兄妹二人のアスファルトジャングルからの脱出。 自然が大好きだった私たちにとって、年に一度のわくわくイベントであった。

瀬戸内海を望む小さな町に母の生家はある。 深緑色のサイディングに出窓がお洒落な写真館。 当時としては珍しい洋風の外観がお気に入りだった。

家の前のでこぼこ道。 少し歩くと水田が広がる。 真夏の太陽に照りつけられ、青黒く波打つ稲。 その向こうの景色が、ゆらゆら揺れていた。 

買ってもらった麦藁帽。 赤いリボンは私、黒いのが兄である。 それをかぶり、白い入道雲が立ち上る青空の下、一日中遊んだ。

真夏の昼下がり、肌にまとわりつく暑さ。 蝉時雨以外の音は何も聞こえない。

小学校へ蝉採りに行く。 数軒の農家の背戸を抜けて校庭へ出る。 よその家の敷地内へ無断で入るスリル。 夢中で兄の背中を追った。 蝉は意外と簡単に採れて、籠一杯の鳴き声を自慢げに持ち歩く。

四人乗りブランコ。  巨大な木製シーソー。  校庭の隅に立つ二宮金次郎。  校舎の壁や廊下が板張りだった。  中庭にある小便小僧、わざわざ水を出し、手を叩いて喜ぶ。  ここへ転校できたら 「今より絶対勉強する」 と、本気だった。

畑で真っ赤に熟したトマトにかぶりつく。  あぜ道が嬉しくて遠回りする。  道端のピンクの撫子がかわいくて、長い時間、おしゃべりした。  小川の湧き水。  煌く水面のすぐ上を、細身の真っ黒い河原トンボがすいすい。  見るものすべてが新鮮で、すべてが遊び相手。  あるがままの自然が大好きだった。

そんな兄妹に、夕方、どこからともなく聞こえてくる「家路」の曲。 「帰らなくっちゃ」、まだ遊びたい心を抑えて家路をたどった。 あかね空に向って。 辺りは夕暮れの音や匂いがたちこめ、煙っている。

帰宅すると、祖母が台所で忙しそう。 釜から白い泡が吹きこぼれ、かまどの薪がパチパチはじけていた。 落ちているV字の松葉を、そっとたき口へ投げ込んでみる。

米が炊け、おかずや薪の香りが部屋中に混じり合う頃、空腹感は絶頂に達する。 花柄の茶碗にてんこ盛りのご飯をぺろり。 あれもこれも平らげる。 おいしかった。

満腹になったら、次は行水である。 土間に置かれた大だらいにぬるめの湯。 祖母が笑顔で体をこすってくれた。

夜は蚊帳をつる。 母が使った子供用の小さい布団。  寝るどころではない。  布団の上で、でんぐり返り。  用もないのに蚊帳から出たり入ったり。  そんな私たちの横で、祖母が目を閉じたまま 「早よ、寝んさい」と。  団扇を持つ手が、時々止まっては、また動きだす。

遠い時間からもどってきた場面が、コマ送りに浮かんでくる。 どれ程そうしていたのか、ふと我に返り、あかね雲が更に広がった窓外へ、再び目をやる。

夕焼けの雲の上に、兄と私のはしゃぐ姿が見える気がする。 これぞ夏という夏だった。 甘酸っぱい時空の旅はそろそろおしまい。

その余韻を胸に、書きかけの原稿へ、また、向った。  


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